名前を剥がす

生まれてから、自分を認識しえる社会の作った工夫は名前だろう。

 

苗字が変わる場合もあれ、死後の仏教で授かる戒名であれ、その人を特定するのに名前が使われる。

 

身体は、変遷に変遷を重ねても、名前はその一個人を表す。

 

僕らはあたかもそれが自然のことのようにそれを受け入れる。

中には芸人さんのように、芸名を得たり、また、伝統芸能であれば、襲名というものもある。

 

多くは、自分が考えたものでなく、授かったもの。

そう言えば、「甘んじて襲名する」という話をしていた力士がいたような。

 

誕生にしても、本人が選んだものではない、

 

葛飾北斎は生涯に三十回名前を変えたという。

 

例え、なんらかの摂理により名前を与えられたとしても、そのラベルを時に、剥がしてみたいと思うのは人情だと思う。

 

身体教育研究所、その母体である整体協会の創立者野口晴哉先生の残された研究の中でも代表的なものに「体癖研究」がある。

 

もし世界から名前を取り除いたら、残る手がかりは体癖だと思う。

一人ひとりが違っている。

そして、その人の歴史がそこに形成されている。

 

さらにそれは人為的なものではなく、自己、つまり名前を超えて自ずと育ってきたもの。

 

 

時々、「名前のない世界」に行ってみたいという誘惑に駆られる。

 

 

名前が人を区別することが、偏見や不平等感を生んできたということを感じるは私だけだろうか。

 

名前をなくす稽古をしていくと、時にこれまで知らなかった世界観に入れる。

そこには、ラベルを剥がした身体があり、比較による劣等感や焦燥感、寂寞感は消えている。

 

ただ、ひとりだけれども、ひとりではない。

 

2024/2/9 Sosuke.Imaeda