『虚」という門の先にあるもの

 野口晴哉先生の整体において「虚」は眼目であります。

 

 長年モヤモヤしていたものが、稽古教授によって明になるというのは多々あります。その都度、他者の偉大さを感じます。

 やはり自分だけでは自家中毒に陥り、人は相互に影響しあってこそ生きていけるのだなと思います。

 そして人と人との関係、人と自然との関係、その関係性という時空間に「虚」というスペースがあるように思うのです。

 

 私の個人教授は、シナリオがあってその通りにやっているわけではいません。都度、稽古される人の経験、身体の状態をみて、なんらかの同調感覚、隠された身体を引き出すためのハンドメイドのアドリブ感覚が主体です。

 そんな時に自分の法理が成り立つかは、実理として実践できるかが試金石となります。

 

 今回扱っているのは、

 

 「虚」は思考をスキップするための時空間である。

 

 という仮説の法理であり、それは稽古を重ねるにつれ確信に変わってきています。

 ちなみに過去に多くの賢人が経験してきたものを私なりの法理表現で現したともいえるでしょう。

 

【アニメブームの象徴する現代】

 

 昨今は空前のアニメブームです。よくわからないクールジャパンという言葉の筆頭にもアニメは上げられてます。確かに十分に大人すぎる私にも楽しめます。「鬼滅の刃」や「呪術廻戦」は映画もアニメも漫画も大いに楽しませていただきました。

 「名探偵コナン」や「薬屋のひとりごと」「小市民」なども大人気ですが、これらのアニメに共通していると思われるのは、答えがある謎を解くクールでクレバーな主人公という設定のように思えます。

 もし答えがなく、したがって解決もせず、善悪すらもはっきりしないとなれば読者はおいてきぼりになった感じがするのでしょうし、才能のある若い作家の秀逸なアイディアを大手の優秀な編集者はいかにロジカルにミステリー風にシリーズ化するかというマーケティング芸に長けているように思えます。

 

 ある意味、知的好奇心を思いっきり引っ張り、それにジャストミートで答えている作品とも思います。

 

 しかしそれらは一面、

 好奇心の生む渇望の発生→謎回収の遂行開始→回答への仄めかし→渇望の充足

 という主題は変わっても数々のイベントの無限ループの繰り返しであるように思えます。

 なんだか、平面的なのです。

 

 「虚」というのはそこを越えるための一里塚ととらえます

 「思考」という頭の中で始終ミンミンと鳴いている蝉声の次元を越えるためには何も無い空間が必要なのです。

 平面からの脱皮です。

 ある意味、三途の川にも例えられりでしょう。

 次元を越えたところに忽然と現れるのが「身体」です。

 それまでに「身体」と思っていたものは、「思考」が作り出した観念としての身体もどきではないのか。

 

 私たちは、「答え」つまり「目標」を定め、計画を立てて、努力し、ほとんどの場合は我慢し、目標を達成することが有意義と教えられてきました。

 優秀で褒められるべき市民です。「いいね」ボタンを社会からももらうためのパスありPDCAです。

 

 「やりたいことが見つけられません」といって悩む若者はある意味、結果から遡った目標ありきという近代教育のスタート地点が見つからないという皮肉な結果ですね。

 なぜやりたいことがないと安心できないのか?クリアな答えがないとメンタル不調になるのか。全部頭の中で思考がループし続けているのに他ならないからと思えます。

 

【稽古場で学ぶこと】

 

 稽古場で教えているのは、目標のない世界です。

 我慢もありません。

 なぜって?それらは「思考」に通じ「身体」を覆い隠してしまうからです。

 

 例えば、「断食」という目標を我慢してやってもそれは精神的満足でしかなく、一時的に思考という蝉が鳴き止んだだけです。

 冷蔵庫に何もなく、近くにコンビニもなく、自身では食する手段がないとき、四面楚歌という環境が思考を越えた時、はじめて身体は顔を出し、身体は自らリフレッシュに向かいます。

 ただ、我慢とは別種の思い切り、つまり覚悟は必要です。

 それには、日々起こる事象を、思考をスキップするための運命と無批判に受け入れて、自身の選択という自由を剥奪し、すでに身体に蔓延している思考をがんじがらめに追い詰めないと、「思考」から脱却した人の眞の身体にはなり得ず、他者でも自身にでも触れられないと思うのです。

 

 ちなみに「我慢」が生まれる道理としては、強制されるという大きな負の一面がありますが、それとともに自ら作り出す「我慢」というものもあると思います。

 日々の生活のなかでなんらかの遭遇に、天啓のようにハマったり、やっていくうちに面白さを知りそれにハマってしまう。しかしそれが恒常化していくと、続けることが主体となり、我慢しながらがんばるという最初の頃の感動を忘れて、我慢を我慢してしまうという状況になりがちです。多くの症状は頭の中でそのことに関する思考がただ回転し続け、そのことに付随する欲望がもたげ、頭を支配して、楽しみを純粋に感じた身体感動を忘れてしまった現象です。

 いわゆる、基準を達成してお金持ちになったらとか、人気者になったらという類の誘惑です。

 このような「我慢」は運命という不可避なものではなくなんらかの手当が可能のように思えます。

 

 いずれにしても我慢が顔を出していると気づいた時に潔い「転換」が必要となります。

 

 アニメといえば私の世代の青春を彩った梶原一騎先生の「巨人の星」「あしたのジョー」などの根性ものは、近代文化が生んだ青少年に夢を抱かせる名作と言えるでしょう。

 しかし、身体が健やかに育つかという点では今にして思えば大いに疑問が残ります。

鬼コーチに強制されて兎跳びグラウンド一周した身体と、好きなことにに没頭し自発的に鍛えた身体は、身体検査数値で同じであっても、果たして生身の生活として同じ身体なのでしょうか。

 当時使われていた「根性」「思考」偏重の近代文明の落とした身体は、大衆文化と共に量産されてきたとも思えてしまいます。

 

 別の側面でも「気合い」とか「根性」は、若いうちはカッコいいですが、高血圧の温床となり歳をよれば健康への逆進行為でしかないです。

 

 忍耐や我慢を是とせず、それでいて運命を盲目的に享受し、それを未結末を前提の覚悟で、自らの身体で全力突破する万死一生、大死一番の心こそ、転換により「虚」が顔を出す環境が整った瞬間だと思います。

 

 これまで「虚」について法理を色々と述べてきましたが、それではどうやって「虚」の世界の入り口を見つけ、中に入るかはより具体的な身体運動プロセスに落とし込んでいかないと、稽古にはならないと思っています。

 単なる能書に終わらせないために、何かの技術を習得しなければできないというのではない、普通に毎日を頑張っている方々に実践していただく実技こそが稽古場の肝です。

 

 それでは稽古の一端についてご紹介します。

 お稽古では、正座という姿の中に何もない空間「虚」を作り、その身体感を一変させます。そうなると足を痺れさせていた体の質量はふくらはぎや足首、足の甲から腰に移動して身体は軽く感じられ、なぜかつて正座が貴ばれたかその一端を知ることができるでしょう。

 また合掌行気(正座して手を合わせる姿、一般的にお祈りする姿)の姿に「虚」の空間を作り、胸に清涼感がひろがる稽古などをします。これも茶道や能楽などの動作との共通性、日本人に愛した感覚ということを知ることができます。

これらは「虚」の空間の先に存在するものとつながる空間なのです。

 

 前出の文章で

 

 「その都度、他者の偉大さを感じます。やはり自分だけでは自家中毒に陥り、人は相互に影響しあってこそ生きていけるのだなと思います」

 

 という件がありますが、それは「虚」と相対峙する稽古を目指しているからこそなのです。

 

 これはほんの一例ですが、このようなことを繰り返しやっていくことにより、実は人は一人に閉じた空間にいるのではなく、「自我・われ」という「思考」が作り出した観念身体を取り除いた、人々が通じ合える「われら」という身体空間にいるのだということを少しでも実感いただければ幸甚であります。

 

 個体として隔離していない。「われら」を感じた時、近代教育に裏打ちされた人生観も変わることでしょう。

 

 稽古には大きく「教授」と「操法」がありますが、具体的な教授ではない操法であっても自ずと「虚」の世界を学んでおります。

 そういった意味で、操法においても個別稽古と銘打っているのです。

 

2025/7/1 Sosuke.Imaeda