無目的

 AI技術は著しく向上している。

 このままでいけば、1990年代後半から席巻した携帯、スマホよりより早く人類の生活に取り込まれていくのだろう。

 数年前にハリウッドの俳優たちがAIが仕事を奪うと警戒してストを起こしていたが、まんざら架空物語ではなくなってきている。映画だってどこまでが仮想でどこまでがリアルかよほどのプロでない限り判別が難しいだろう。

 子供の頃、カキ氷をイチゴにしようか、メロンにしようか、パイナップルにしようかと悩んだことと一緒。見る側がAIの作り出すものに慣れてしまえば、それが自然となる。ちなみに子供心にブルーハワイだけなんだか理解出来なかった。

 精神に支配された私たちは、もはや自分で色によりイチゴやメロン味を作り出す。

 そういえば、つぶつぶが入ったオレンジジュースみたいなのがあったが(いまでもあるのかな)喉越しのつぶつぶは実はダンボールみたいな紙なのだと誰かに聞いた時はショックだった。

 精神の身体への侵食性はものすごく強力で、人々の知らない間に文明に入り込み、文化を蝕んでいく。

いまや精神に支配されない身体を自身に見つけ出すには、死ぬほど怖い目に遭うみたいな、我を忘れる事態にならないと不可能だろう。

 

 さて、身体教育研究所で教えられる身体との向き合い方に「無目的」がある。

 おそらく多くの人が「ハァ?」となるだろう。

 

 人はゴールを設定してそれに向けて努力することは尊いことだと近代教育では教えられる。

 何でもかんでもゲーム感覚で、運動会も受験も出世も、結局のところ勝ち負けでがんばるわけだし、オリンピックも同様。結果重視でいえばギャンブルなんてその最たるものだ。それに付随したランキングなんかもほんとにみんな大好きだ。

 

 近代に取り残された多くの現代の原始日本人達は、かなり辛い人生を送ってきたと思う。

 

 戦後のGHQ支配後、いわば名誉や金という褒賞をチラつかせ、功名心を鼓舞し、競争心を煽った政策はスポーツなどを通じ、一段と心地よさげに、さも礼儀正しく教育に反映されて来た。素晴らしきGHQの日本文化埋没、つまり身体滅失化政策の成果だ。

 

 ゴールを目指して努力する姿を尊いと思うのは、戦後倫理観だろうが、別の視点でみるとアドレナリンが出るからだと思う。

精神は高揚し、興奮して快楽を得る。

 ゴール、大体のところ名声とか富とかプライド充足みたいなものが背景にあること、それを想像し脳はある種の興奮とそれに伴う快楽をもたらす。

 優等生近代人は一皮剥けば快楽依存症だとも言えなくはない。快楽は精神作用だ。そして精神に被われた体に身体は隠されてしまう。日々の地道な努力でさえ、目的を持った途端、精神が体を包む。

 

 だから身体を教育することを研究するには「無目的」が必須なのだ。目的化イコール精神化の罠にハマる。

 

 AIアルゴリズムはあっという間に世界中のデジタル情報を検索し、情報の信用度を点数化、関連性をリンク先、閲覧•発信している属性により精査し、答えを提示する。そのプロセスは公にはわからず、時間もほとんど一瞬だ。

 現段階の技術でも思考のゴールは尋ね方さえ工夫すれば、かなりの正確度でスマホがあれば誰でも手に入る。そしてそれは結果だけでなく、提案・企画ステイタスでも同様だ。さらにそれはロボット技術と融合してリアルの世界にも確実に侵食していくだろう。

 

 人に残された分野は「過程」だ。オペレーションやプロセスといった部分。そこに価値を置くという思想が今後深まっていくことを私は期待している。

 

 「人は何のために生きているのですか」どっかの大学の哲学の授業みたいだが、愚問だと思う。

 「人は生きるために生きている」だからこそ毎日、この一瞬一瞬に生命の息吹があり、それに感激でき、充足できる。それこそが生命というものなのだ。

 

 科学が発展し、労働が工業化することにより、頭脳が精神化して著しく偏向・巨大化した結果、いまこの瞬間を生きることが、観念としての目的にすり替わってしまった現代だからこそ、AIの登場は身体回復、失われた身体の復興、文化の勃興のきっかけになるのではないかと期待させられるのだ。

 

 目的を達成する興奮は機械に任せ、人は今後残された最後の聖域で、一心にこの身体に集注することに充足感を感じる日々を取り戻せないだろうかと思う。

 そして身体を充分に使い切った後に安らかな終わりがやってくる。

 

 野口晴哉先生は病気は経過するものだと説いておられる。治すという結果目的ではなく、どのように経過するかが眼目であり、生きるという天から与えられた使命の醍醐味なのだ。

 

 そういう日々の営みの中にこそ、頭ではなく肚で考えるという意味を体得できるのだろう。

 

 いうまでも無く、腰肚は日本的身体の要諦だが、腰肚が使えるような人間になるだけではなく、現在貴方と共にクラウド、つまり共同体宇宙として進行している腰肚の気に集注することこそが稽古なのだ。

 腰肚はいまや精神に被われ埋没してしまっている。だから一からの発掘作業である。

 

 そして沸騰し続けた精神を、つまり思考を一時でも意志ではなく、自然に凍結しさえすれば、花鳥風月の風景が現出する。もちろんそれは精神がイメージした世界ではなく、ここにある身体いっぱいに気が満ちた実感がある身体のリアルティだ。はじめて過去人が感じていた世界に立ち戻り、鳥の声は肩甲骨に響き、胸の中を晴風が舞っている事に貴方は気がつくのだ。

 

 その時祖から何万年も連綿と続いてきた生命のバトンに私たちは眼が開かれる。その思いが噴出するだろう。

 無目的に身を置いてこそわかることもある。

 

 私は孤独ではなかったのだ。

 

2025/9/29 Sosuke.Imaeda