是非に及ばず

 「是非に及ばず」

 

 織田信長の天正十年六月二日本能寺の変、最後の言葉。

 信長は是非という二項対立の世界を抜け出す、死す時、正にその時にそう言ったとされる。

 おそらく正邪の色濃い戦国時代において、ほとほと二項対立の世界に嫌気がさしていたとも思える。

 もはや是非が及ばない処に我は去る。

 燃え盛る本能寺で最後の能を舞った信長の立姿は生と死の狭間にいた。

 

 茶の文化を貴族の密かな楽しみから、武士へと導いたのも信長だった。

 その後の千利休に代表される茶道は信長の時代にはじまった。

 生きながらにしてかりそめに是非の世界を逃れる時空間が利休居士の創作した日本的茶文化であった。

 

 そして茶と切り離せない禅文化は武士に愛された。

 栄西や道元により宗の時代に伝わった禅文化は、日本色に染められ変化はあれど現代に伝えられ、いまや中国でその名残を見つけるのは困難だ。

 禅の始祖、達磨大師はインドから中国へ渡り坐禅し九年間壁に向かっていたという説話がある。

 私の解釈は、壁により我を逃さず我に向かい瞑目している。是非の外にあるものを全身全霊で刮目しているのだ。

 

 身体にも是と非のエリアが無論ある。

 「是非に及ばず」はその各々のエリアの境にあるのだろう。裂け目の世界に信長が求めた世界があるのならば、生身の私たちでもその世界の一端を味わうことはできるのではないか。

 

 是非に及ぶ以前にあるもの、禅語でいう「未生の眼目」そこに刮目する稽古。

 境を扱うお稽古はお盆時の七月八月に相応しい稽古だと思います。

 

2025/7/13 Sosuke.Imaeda