いつもおしゃべりをして、活動的で友達も多く、明るい男の子。
いつもおとなしくて、どこにいるかわからず、うちにこもり、影が薄い男の子。
幼い頃、どちらかの印象を持たれていただろう。きっと、クラスの友達と塾の友達は僕を全く別の人として見ていたと思う。
「あなたらしくない」むかしそんな曲をある人のために作った。
曲は凡庸だった。題名にしてもステレオタイプだ。でも時々思い出す。
「あなたらしくない」っていうのであれば「あなたらしい」はどんな感じなんだろうと。
十人の友達がいれば、十通りの「あなたらしい」があるのだろうか。
僕は何十年も外から見た自分を、
磨いていこうと、ナメられたらいかんと、好人物であろうと、そう思い意識の中でも外でも身体に擦り込んでいた。
もう30年以上も前、社会人1年生の夜のおでん屋。
新入社員の自分は飲めない酒を飲み、つい口を滑らせたのか、一年上の骨太な先輩に怒られた。
「おまえは、人を見て態度を変えるのか!」
その言葉が今でも心の隅に引っかかっている。
そもそも態度を変える自分というものの定義はあるのだろうか?
きっと先輩は僕を優柔不断に生きていきそうな男だと思ったのだろう。
「優柔不断」の何が悪いのだ。人生など優柔不断に終わっていくのだ。
覚悟を持って優柔不断に生きていけばいい。弱い男の断を絶つサバイバルの方法なのだ。
なんでも反発したい年頃だったあの頃、何にでも理屈をこねて怒っていた。
それから僕は経験を積み、人と闘い、時に翻弄され、見栄も貼り、書店にあるハウツーものを分かった風にたくさん読み、本当にあるのかないのかよくわからない自分らしきものを何層かに織り込んで、なんとか生き抜いてきた。
ただやっぱり、本当の自分なんてどこにもいないようだったし、自分らしさなんてものも軽く薄っぺらいようなものに思えた。
鏡というものがなかったら、鏡を見ない生活を数年間続けたら、きっと自分の姿を見てもわからないだろう。
そこには自分なるマガイモノがニヤッとつくり笑いをしてこちらを向いているかもしれない。
「姿」は見るものではなく感じるものなのに僕は毎朝鏡を見続けた。
そしてついにある朝、身体の中に風が流れ出した。それは寒くなる秋の早朝の隙間風のように、徐々に体の中を蝕んだ。
齢を重ねるにつれ、出口を見つけられないその風は重くなり、粒子は反発しぶつかり合い、そして積滞し固まっていった。
積もり積もった風の残骸に占有された身体、そろそろ吹くスペースが見つからなくなった頃、僕は身体教育研究所の公開講話で「身体の奥」の世界を内観することを知った。
近代社会の中で硬まっていく僕にとって、あるようでなかった内観的身体がそこにははっきりとあった。
それは天啓だった。
ある晩、先生がいわれた。
「君たちは何のためにここに来ているのか?健康になるためにか?」
僕はなぜこんなにもここに通っているのだろう。
「君たちは自分を変えるためにここに来ているのでしょう」
きっとそれはこれまでとは明らかに違った、けれど長く辛い闘いになる。
人生の終末に向かって幾十にも重なった膠を引き剥がしていかなければならないのだ。しかも形勢は圧倒的に不利だ。
それでも生ある限り、一区切りをつけて次の世代にバトンを渡すためにも、眠い目を擦りながら新しい朝陽をあたり続けるだろう。
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