先日個人教授を受けにきている方と「呪術廻戦」の話を少ししました。
「呪術廻戦」は週間ジャンプに連載され、いまはアニメでも大人気で私も楽しんでます。
文字通り呪術がメインとして扱われるわけですが、呪術ではなく身体能力がとても高い人物についてフィジカルギフテッドという形容が使われてます。
「physical gift」を辞書で調べると「恵まれた体格」「身体的に恵まれていること」という説明があります。
私の言葉の解釈は違いました。
フィジカルそれを身体とすると「身体というギフトを与えられたモノ」ということで、身体自体が恵まれているとか、それ自体によって違いがあると捉えてはいませんでした。
明治維新後、近代文明は論理的という思考、エビデンスという再現性など脳での処理に偏っていきました。気がつくと、身体はスルーして脳だけを働かせた方が大洒落で、文明的だという風潮が生まれていたのだと思います。
身体は人によって差があるから、そこに着目するのはイーブンではないという思想もあったような気がしています。
私は、ロジックが重んじられ、結論から話すように何度も教育されてきました。
小学生の頃、何度も感想文を書かされました。文章や体験に何かを感じ、文字化すること、体系化することを学びました。
「ポイントは三つあります。。。」なんて耳タコです。
それと同時に、手の平で水を掬うように、多くの水が流れ落ちていったような気がします。手の平に残ったものはその時代が要求したポイントという選別された水滴だったのではないでしょうか。
多くの出来事があり、多くの事で身体をスルーしてきました。
「北斗の拳」の作画をされた原哲夫氏は格闘シーンの絵が完成した時には自身が実際に格闘した後の体のようになっていた。ということをテレビで話されてました。
近代に生きる私たちは、望まれた人になるために全力を尽くしています。
しかし
見る時も
話す時も
歩く時ですら、
本当に身体は通過しているのでしょうか。
今枝壮介 2023/10/3
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