AIの時代

 GeminiというAIを使ってみる。とても良くできていて、たいていのことは答えてくれるし、絵などもリクエストすると描いてくれる。

 けっこう笑えることも多いが、このままいけば生活がAIによってだいぶ変わるのは間違いないのだろう。

 

 そうすると私たちの生活の醍醐味はどうなるかといえば、やはりプロセスへの傾倒だと思う。

 西欧化を良しとした近代文明は結果重視の文明だと思う。ともかくいまの我々はゲーム感覚が大好きだ。

 勝敗、ランキングはマーケティングの肝であり、ビジネス化、人の精神科の大好物だ。

 AIで使われるブレストや統計分析、企画立案手法も、目的の結果に辿り着くためのもので、結果に紐づけられなければ意味をなさないし、人々のアドレナリンも上がらない。

 

 ざっくりいえば私の使う精神という言葉は、アドレナリンが上がった脳という形容でもいいと思う。

 

 多くの人に稽古は目的を持たないのが理想であると説いても「ハァ?」となる。ハナ肇ではないが「お呼びでない」のだ。

 近代教育で育った私もその反応は十分納得でき、稽古思想と身体感覚の狭間でとめどめなく押し流されていく。

 そもそも身体感覚など、現代の生活必要上は無に等しく、知識偏重の精神的納得感だけで生きているのだから始末が悪い。

 

 自己実現を核とするエゴイズムとヒューマニズムが大好物な怪物たち。

 

 これらに反発してきたAIについて否定する世代にも傑出者は多くいらっしゃると思うが、私はAIが進化することによって、「日々の行い」の生命性への集注の変化へ、人類が追い込まれていくのではないかという期待が大きい。

 

 前近代の禅行者が脚下照顧や一日一生などと何気ない日々の行いを修行の中心に据えていたのも、その欠如を未来を予感する身体がいち早く感じ取っていたからだと思う。

 

 目的や結果、そしてそれに至るまでのハウツーより、生命として感じてるものをもう一度見直す時代がやってくればいいと思う。

 

 それが科学文明以前に賢者が述べていた「身体の中に輝く珠を磨く」一助になると思う。

 

 われわれはあまりにも脳に偏重し、疲弊しきった脳は、周りにものすごく厚く高い防波堤を張りめぐらし、結果もたらす呼吸困難は、頭痛や偏頭痛、意味不明の不調を呼び起こしている。

 

 頭は熱暴走し、肚は冷え切った氷河期のようだ。

 でも同じ時代はいつまでも続かない。

 生命は変化するものだから。

 

2025/9/11 Sosuke.Imaeda