僕らの精神が関与しないところで、身体は呼吸し、消化し、睡眠を取り、どこかとリンクしているのではないでしょうか。
実生活と全く切り離された、あまりにリアリステックな夢は誰もが経験することでしょう。
例えば、行ったこともない場所での予期しない展開、そこでは会ったこともないと思われる人すら、生々しく出てきます。
私たちは本当に自分の意志だけで生きているのでしょうか。
身体を完全に所有できているのでしょうか。
何か、その気にさせられているだけのような気がします。
ソンナコンナ、アンナコンナと自縄自縛になり、地団駄踏んでいる人生。
そのバックグラウンドでは、思考を超えた身体では、淡々と静かに時は刻まれています。
柱時計の振り子が心臓の鼓動とすれば、その鼓動を動かしているものはなんなのでしょう。
宇宙の果て、はるか遠くから来るもの。
それは形而上のものかもしれないし、自然と呼ばれる天地かもしれませんし、いわゆる神というものかもしれません、いやいや重力が発するエネルギーだという科学者もいるでしょう。
いずれにせよ、生命を刻む振り子はゼンマイ仕掛けのように終わりに向かって揺れています。
そして、仔細に観察すれば、振り子の揺れは自然ながらだんだんと弱まり、一度なりとも同じ弧を描いてはいない模様です。
「動法」を稽古する徒たちは身体の裡に耳を澄ましています。
無音の中に何かが生起するのを辛抱強く待っているのです。
きっかけさえあれば、時とともに拡散していく裡の要素を一点に集め、身体全体を垣間観察できるからです。
観察さえできれば、身体は変わります。
無数に存在する身体の裡にある振り子、健やかに生きていくためには、止まってしまいそうな振り子に勢いが必要なのです
私たちに授けらた手段は、観察のみです。
直接的には何もできない。
小さな振り子たちは自分で揺れて行かなければならないのです。
徒たちの五感は研ぎ澄まなければなりません。
普段は外界に向かれているので、内界を感覚するのは、容易ではないのです。
うっすらと開かれた唇で、身体の中に花開く生命の息吹を飲み込むために、耳を澄まして待つのは修行といってもいいかもしれません。
死という確実性のあるものに向かって、私たちは、鼓動を弱めながら、ナニカに向かって生きている。
しかし、知識ある人が「人生の目的は何か」と問いを発するたびに振り子は、同様な揺れを繰り返すようになります。
彼らが考えれば考えるほど振り子の揺れは無くなって生きます。
禅宗ではそんな時、「喝」を唱えるようです。
「空生巌畔花狼藉」
禅の問答を収めた碧眼録にある好きな言葉です。
須菩提(釈迦の弟子)が洞窟の中で座禅をしていると、諸天がそれをめでてて空中から花を雨をふらせたという故事をうたっています。
その時、須菩提は止まっていたのでしょうか。
身体は閉ざされていたのでしょうか。
身体が得ることができた有限な時間とどのように向き合っていけばいいのか。
一体、固まっていく身体を誰が支配しているのだろうか。
2018/1/1 sosuke imaeda
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