集注を稽古する場として駒込稽古場はあります。
集注というとどうしても、頭に意識を集中して無念夢想になるというイメージを想起しがちです。
しかし、これでは身体観がどんどん薄れていってしまうのではないか。というのが私たちの考え方です。
駒込稽古場での集注はないものに集中するのではなく、身体に集注します。
私たちのほとんどの日常の行為は、外で起こること、外での風景に集中し、それに反応することに専念しています。日々忙殺されていると言っても過言ではないでしょう。
そのベースには、危険回避や何か利得を得ようとか、何らかの動機や目的が潜んでいると思われます。
そしてそれは達成されようと達成されまいと、次の動機や目的に引き継がれます。まるで人生に急き立てられているかのようにです。
時には不動の心、静寂な心がふと訪れて来ることもあるでしょう。しかし、それは束の間の出来事で、また新しい目的に向かって、自由にならない環境をなんとか操作しようとして、立ち向かっていくのが精神の性と言うものではないでしょう。
「お金を得る」「名声を得る」だけでなく「幸せになる」「安全を願う」なども同様に目的です。
そんな時に私たちは一体何に集中しているのか。
それを仮に精神の運動とすれば、掴み得ない、想像の中に埋没する危険性は常に孕んでいるのではないでしょうか。
かつて我々の先立たちの「気合を入れる」という行為は身体の感覚と必ず同調していました。しかし現代では、頭の運動つまり精神活動に終始することがほとんどです。
私たちの毎日触れているもの、それは身体に他なりません。それは生まれてから育ち、死ぬまで、共に過ごす私たち、つまり人間そのものです。
身体への集注とはいかなるものか。筋肉を逞しくする、リラックスする、そんな目的を持ったものでしょうか。
営々と太古から続いてきた自然は、果たしてなんらかの目的を持って続いてきたのでしょうか。
私たちの稽古は、自然に発生している自発的な身体の集注を観察することです。
「理」を求めるため、時には意志を呼び水にそれを喚起します。
喚起された自発的な集注から、日本文化を形成してきた「型」の原型を炙り出し、それを用い身体集注を深めていきます。
稽古により現出する新たな身体観は、稽古を深めるごとに新たな展開を示します。
身体観の変化こそが人間そのものの変化を促し、日々好日とし、全力で生きていく源となるという考えなのです。