視・聴・嗅(きゅう)・味・触の五つの感覚を五感というらしい。
私たちは外の世界と接する時に五感を使う。そして私自身を感じるのも五感を使っているのではないかと思う。
という事は、普段感じている自分は外の世界にいる自分である。
内観は中の世界にいる自分を感じる事である。おそらく人間は大古から外の世界を感じることによって、厳しい現実を生存してきたのだと思う。
だからどうしても外の世界を認識するボタンが先に押されてしまい、中の世界は無自覚の中に沈殿してしまう。
でも時として人は中の世界を垣間見る瞬間がある。
ここでいう中の世界は「内」のことであり、表に対しての「裏」である。
思うに、それは畏怖する時間だったりする。真夜中に何か質量のある黒っぽいベールのようなものが迫ってくる感覚も一つだ。
祭りは外の世界を現しているようだが、内の世界はお祭り騒ぎではない、祭りの後の静けさ、ポツンとたたずむ神社の境内と裏表だ。
能面をつけると外面を隠すことにより、否応なく裏の世界、日常自分とは思っていない身体が立ち現れる。裏の世界には自分という境界がどうも曖昧だ。
「裏表がない」という言葉は何を意味するのか。
つまり私の日本文化的論法によれば「裏と表ははっきりと存在している」ということの隠喩なのだ。
ここで問います。
あなたは裏表がないと言われる人はお好きですか?
般若心経には「無眼耳鼻舌身意」という六根といわれる仏法の言葉がありますが、ここでいう身と意は表裏どちらを向いていると思いますか?
私の思う内観はもちろん中の世界であり、裏の世界である内という空間を観照することである。
それによる効能は?と現代人は必ず思うだろう。
でもそういう事は言わずもがなで、野暮というものだから、この辺でお終いにしたい。
拙文を最後まで読んでいただいてありがとうございました。
2025/8/3Sosuke.Imaeda
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