稽古場で操法を受けていただいている方のお勧めで色々な本をナレーターが再現してくれるamazonのAudibleというサブスクライブサービスに入ってみた。
試しに最近ヒットしている「国宝」という映画、原作も評判なので聴きはじめてみる。
ドフトエフスキーの「カラマーゾフ兄弟」は何度か読んでいるが、音声として聴くと視界からの読書が多面的になり新しい発見がある。
ゲーテの「ファウスト」なんかも聴く機会がなけれなければ再読はしなかったろう。
ジョン・ミルトンの「失楽園」も聴きたかったのだが、残念ながら英語しかない。でもわからないなりに英語で聞き流すのも何か肚に落ちる感じでいい。いずれは世界の色々な古典を原語で聴いてみたい。学生時代に英語でフランス語でドラマとか映画をみた楽しみを思い出せそうだ。
わかろうという気合いを諦めてしまうと違う視界が開けていく。外国物に関わらず、日本の古典なども頭を使わずして、胎で読むことを思い出し、新たに身につけていきたい。
僕の受けた教育では頭を使いすぎる癖をつけさせるものばかりだった。
読後感想文などもその典型だ。
僕はいたずらに内容を整理し、先生を意識しながら感想をまとめ、それらしい文章にした。でもきっとそうやっていくうちに視野はどんどん狭くなり、本の魅力は限定的になってしまったと思う。せめて読後感をまとめるなら、真っ白い画用紙になんでもいいから描いてみるみたいなのだったよかったのにと思う。
この年になると嫌でも身体に耳を澄ますようになる。整体を成す者としては当然だが、若い頃と違い切羽詰まったリアルな課題として、以前よりもはるかに真剣に身体を観察するようになった。
その中で切実に感じているのが、すぐ頭、脳を使ってしまっているということ。
頭に血が上り、緊張を起こしたまま、頭の緊張だけで生きている。何かを考えるだけで、そうなる。そして悪いことにいつも何かを考えている。そんな時下半身なんてないに等しい。それが恒常化してしまっている。
考えることでポイントが貯まり健康がプレゼントされるなんてあり得なくて、考えているほとんどのことは非生産的ものでマイナスの感情。思考が何かを覆い隠すように自分も覆い隠されている。お笑いですら、なんで面白いのか考えながら聞いているから始末が悪い。
ちょっとでも気を抜くと何かを考え出す頭はかなり病的だ。
中毒症状。
思考を肚という珠にまとわりついた気候・塵埃と考えると、気候という覆いを取り払った時に現れる稲光する珠が存在している。そこにいるのは、どっしりとした何事にも動じない自信、右往左往しない心、こんな自分がいたんだと改めて驚いてしまう。
Audibleの中で、音楽評論家の湯川れい子先生がご自身の体験に基づかれていくつかお話されているが、音楽好きの私には面白い話がいくつもあった。
その中で、ジョンレノンの子育ての話があり、幼児だったジェーン君がテレビをみている時 CMになると音声を消して見せないようにしていたという話が面白かった。
ジョン曰く「実際に体験しないで、知識として理解してしまうということをなるべく避けたい」ということだった。お腹が減って料理する音があって、美味しそうな匂いがあって、キッチンから料理がテーブルへ配膳されていき、涎が出るのを我慢して、手を合わせ口の中に入れる。その経緯には今日の料理はなんだろう、どんな味がするだろうと頭だけでなく身体で感じている。そしてそれを身体で食す。
そういった体験の前に刺激の強いものにただ反応するだけのように15秒で模擬体験はさせたくないとのことだった。
ビートルズがデビューした頃のあの生き生き感、俺たちは生きているんだという。閉塞社会で思考中毒になりつつあった若者にあっという間に広がった生命という共有感、観客が全身で体験する演奏はそういった下地があったからだと改めて気付かされた。
情報が過多になればなるほど、頭の利用はマックスになり、身体はほとんど使われなくなる。
わかったということは、理解したということは、頭の始終要求している刺激への回答にはなるが、一時的な安静をもたらしはするが、知識でしかなく、知恵にはなり得ない。
理解しようとしない。体験を蓄える。思考が入ったら、肚の珠に立ち返る。
いま起こっている事を全身で感じる。
朝、窓の外で鳥が鳴いている。鳥の言葉が自身に降ってくる。全身で鳥の気持ちをを感じる。
悪魔の囁きからの離脱は楽なことではないけれども、いろいろな新しいことに気付け、今一度世界は輝き出します。私の稽古の眼目です。
Sosuke.Imaeda 2025/6/27
Copyright(c)2017 今枝壮介 身体教育研究所 All Rights Reserved