4月になって、新しい生活を始める人が多い。
駅のホームで新入社員と思わしき人と遭遇するとなんとなくうれしくなる。
私の娘が高校生になったと春、新しい制服を嬉しそうに着ていたのを思い出す。
私の社会人スタートはある有名新聞の地方版の新聞記者だった。
あれから半世紀以上経った。
職場であくびでもしようものなら、読売ジャイアンツ記者あがりの編集長から頭にゲンコツが落ちてくる時代。
ある早朝、私は新聞社では裏方とも思えた営業部長に喫茶店に呼び出された。
記者という仕事に自信をなくしていた私は緊張して、視線を合わせられずに出てきたコップの中の水を見ていた。
「僕はね、仕事をしていてこの水のような男になりたいと思っているんだ。水は縦横無尽に形を変えられる。でも水という性質は変わらない」
その時、言葉の意味だけでなく、なにかエキスのようなものがスッと体に入った気がした。
営業部長は、その後、淡々と呟いた。
「今朝も君と会うまでに得意先三軒回ってきたんだ」
時計の針は午前九時前を指していた。
夜討ち朝駆けという言葉があるが、私は忙しいのは記者だけだと思っていた気持ちを恥じた。
そして、もう一度、今日から始めようと職場に向かった。
人生の節目節目でこの時の光景をよく思い出す。
持ち上げるとグラスにあたる氷の音、冷たい水の感触、早朝の喫茶店のざわめき、テーブル前の営業部長の存在。そして自身の変化していく身体感覚。
過去の出来事を思い出すことは、ただのノスタルジーにすぎないのか?
否、と私は思う。
もし、思い出す行為がマザマザとその時のその場の身体感覚を伴ってさえいれば、それは間違いなく私たちのチカラになる。
年を越すにつれ、目に見える身体は確実に衰えている。しかし、私たちの生きるチカラの源泉である身体感覚は、朽ちるどころか、身体経験により、より燻銀の輝きを増し、強くなっていく。きっとそれに気づかないだけだ。
身体感覚は原点に戻ることによりいくらでも刷新できる。
今日だけに視野を置いた筋トレでもなく、リラクゼーションでもない。
過去に蓄積された、身体が経験した生きる躍動感を呼び起こすことの秘められたチカラ。
なぜ生きているのだろう。
それは生きる方に身体が向いているからだと思う。
その方角が傾いたならば、地に足がつかないときには、過去を紐解いてみるのも一興ではないか。
2024/04/02 Sosuke.Imaeda
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