鏡の世界

鏡を見る。

 

そこにいる自分に集注するあなたは自分の顔の表面に気が集まっていくことを感じるだろう。しかし視線を中に向ければあなたの顔の中は空洞になっていく。

 

同じようにあなたは外界に起こることをいつも感じ泣き笑いしている。しかし外界、つまり外に起こることを感じれば感じるほどあなたの体の中は空洞になっていく。あなたは生きていく空虚さの原因をさらに外に求め、悪いことに空洞はさらに広がっていく。

 

一体これはどういうことなのだろう。あなたの身の回りで起こること、外の世界と関わりになればなるほどあなた自身は空虚になっていくのだ。

 

あなたはがんばる。しかしそれにつれてあなたは「身」をなくしていく。

つまりあなたは社会の中で切磋琢磨すればするほど、つまり鏡を見れば見るほど、あなた自身を見失っていくのだ。

 

賢明なあなたは気づくだろう。豊かになろう、合理的になろう、人に承認してもらおうという外に向かった精神を。

あなたの精神は欲望や野心を満たそうとあなたの体を虎視淡々と狙って酷使する。結果、あなたは空洞の中に観念を作り出しそれを「身」と錯誤する。

 

では、ひとまず身体から精神に退場願おう。するとこれまであなたを支えてきたと思われる観念が消えていくではないか。

もちろん自身が消えるわけではないが精神依存からしばし解放された快適さにちょっと驚いてしまうだろう。まるで孫悟空の輪が外れたようだ。空洞化とともに膨れ上がった観念に体は病んできたのだ。

 

外に注意を向け、自分を忘れて生きていくのはある意味快適だ。

あっという間に年月は経つ。勉強、仕事、家事、恋愛、育児、介護など生活は容赦なく時間を奪っていく。

そしてあなたは生命の灯火を見つめつつ、天からのギフト、つまり身体を忘れていく。

外に集注した結果、身体が空洞化するのであれば中に集注するしかない。

それこそが、観念という化け物に右往左往されないように人生をまっとうできる唯一の手段だろう。

 

もう一度言おう。あなたは鏡を見ることはあっても、自分の存在を観ることはしない。

存在とは何か。「身」を直覚し、芭蕉のいう造化に従い自然と共生していることを実感することだ。

 

まずはこんなことから始めてみるのはどうだろうか。

例えば人を信じる、その前にその信じる気持ちを思考するのではなく感じてみよう。いきなり相手に対するのではなく、まずは自身の感覚を観ることからはじめよう。「身」のある身体は「身」のある身体を呼ぶ。

生きている体を最も大切な天からの客として大切に迎え入れよう。

なぜなら「身」を入れる骸はそこにしかなく、そして自身はそこで無限に感覚を膨らませたりすぼめたり遅らせたり早めたりできるからだ。

そして、驚くべきことに世界中のこと全ては骸の中の「身」と同値なのだ。

 

令和3年11月5日/令和4年6月23日

 

【追記】

 

昭和の時代、子供達は悪いことをすると反省しなさいと押入れに入れられた。

押入れの中は真っ暗で外の世界は存在しなかった。

もし高校生が悪さをして反省部屋なるものに入れられた時、そこに鏡があったらどうしただろう。

きっと当時の僕だったら夢中になって、髪型をなおしていただろう。そして次の日は平然と普段と変わらない悪ガキとなる。

 外の世界とはなかなか縁を切れない。だから、一旦、分離して呼吸してみる。

 自分の外ではなく中の世界の存在、その眩い豊かさに気づいた時、世界は180度変わって観える。

 

令和31231