観られるということ

小学生の時、担任の先生から「天網恢恢疎にして漏らさず」(老子,徳経二巻八十一章)という言葉を教わりました。

当時は天から常に監視されているようで反発したものでしたが、それから半世紀も経って、なぜか最近はよく思い出します。

稽古を重ねるにつれて、漠とした人智を超えたものに観られるという経験が、身体を変えていくことを実感してきたからかもしれません。

見るという能動的動作は、身体のどこかに緊張を生み、対象物に集中すればするほど見る側の身体が固まっていく感じがします。例えて言えば偉い(と思われる)人が一方的にお説教をした後の感じのようです。決して気持ちの良いものではありません。

一方、漠とした人智を超えたものに観られるという経験は、和紙に水が染み込みながら浸透していくように、ゆっくりと静かに、そして心地よく身体が動いていくのを感じます。

まるで鎧のようにそそり立っていたダムのような心の壁がゆっくりと崩壊して、凍りついてへばりついていた冷たい氷が溶解し、流れていくような快さも感じられます。

 

似たような表現に「お天道様にいつも観られている」という古い表現があります。

太陽はこちらから眩しくて見ることはできません。しかし太陽からの光により生物や植物は生存するすべを獲得してきました。

 

我々人間は光により、昼間は太陽に、夜間は月に照らされ、気づかぬままに心の機微を生み、季節により巻物のように流れる風情に様々な文化様式を生んできました。かつてお月見とは直接月を見ることではなく、水面に揺れる月の影を観賞することだったと聞きます。

昼夜、太陽や月に貧富、老弱、善悪の区別なく誰もが静かに観てもらっている思うと心に平穏が訪れます。

 

整体協会の創始者、野口晴哉先生は子供を育てる時、子供の観方の大切さを説かれました。子供は観られるように成長していくというお話です。

私たちは観る稽古を重要視しています。そしてもっと大切なのは観られる稽古だと思います。

漠とした何かに観られる感覚は、とてもやさしく静かな余韻を生み、生活を一変させるチカラを持っていると思います。

 

【追記】

ブルース・リーの大ヒット映画「燃えよドラゴン」では最後に鏡の場での対決があるのですが、もしそれが鏡の場ではなく、影を写し出す障子の場だったら、とたまに考えます。

鏡は対象としての姿を反射します。それは「身」から離れた一人称を見る感覚を発生させます。それに比較し、障子の先にある姿は、まるで我が身の分身のような影を写し出します。それは二人称なのか三人称なのか分かりませんが、そこに何かが立ち現れ身が観られるという感覚を誘発するのです。

そんなことを体験できるのも稽古の醍醐味ですね。

 

令和4418/623