からだの日本文化

日本文化については多くをいろいろな識者が語っていますが、からだと日本文化の関係性を述べたものは希少です。

言うまでもなく文化の素は私たちのからだです。古人はからだを「私の」ではなく私と共にある存在と捉え、その未知なるものに礼を持って向かい合っていました。

 

私はからだに語りかけ、からだはそれに応える。からだは他者のからだとむすびあう。

不思議なことですが、生活していれば私が語りかけているからだは他者と共にあるからだだったみたいなことも頻繁にありましょう。

また一心不乱にからだを磨けば他者のからだも磨かれていくというひびき合いなども不思議なことです。

そんな時はひとりのからだが他者と共にあるからだのように感じます。

 

自我を離れたからだは、腹を括るとか腰を練るなどの日本形式ともいえる多くの生活様式を生み、古人はそんなからだを通して人生を全力で全うし楽しみました。

 

文化とは、残されたモノを鑑賞するだけではなく、それを生み出した日々の行動し思索する生活、つまりそれを動的に捉えるとまた違った古人の趣が甦ってきます。

自ずと美術や音楽を鑑賞した時の感動の幅も広がっていくでしょう。

 

文化が語られる時に自然が背景にあることがよく語られます。自然とは近代人が近代化した街から離れて、取り戻すべき失った未加工な山海という考えがいまは一般的だと思います。

しかし自然を漢字から類推すると自らのしかりという意味です。しかりつまり自ららしさというのは何もせずに自らを野放しにするということでしょうか?

松尾芭蕉は「造化」という言葉を使いましたが、そこには「自」という身を美しくする行為、鍛錬を「然り」としていると思えます。

「造化」された人はロボット化したAIではなく、四季を感じ、素の喜怒哀楽の心を栄養に生きていくべく準備し続ける、そういったことを「自然」と呼んでいたのではないでしょうか。

 

「準備し続ける」ちょっと奇異な表現ですね。平たくいうとそれを「稽古し続ける」と読み替えてもいいでしょう。ちなみに稽古とは「古とひきくらべる」と解せられます。

 

即断即決が必要な時間に追われる現代、もし全ての動作を三倍スローにして動いてみればからだの感覚も大きく変わります。

そこにあるのは、現代では忘れ去られたからだを通したゆったりとした時の流れ。

せいて生きている時間をちょっと遅らすだけで、過去に生きた人との距離が縮まっていく、それは私にとっては未開の領域に入っていくような、祖に遡っていくような、ワクワクする歓びです。そしてこういったことをひとつの稽古ととらえています。

 

あまりに外の世界に忖度し、外からの自分という視点しか持てなくなった現代のからだ、ときにはからだの内面に視点を移し、中から世の中を、身の入ったからだから外を観る時間を持ちたいものです。

 

駒込稽古場ではそのような視点に立って稽古を進めています。

 

【補足】ここでいう「からだ」とは脳で制御する体ではなく、私というアイデンティティ、つまり精神が作り出した観念とは分離した生命体としての「からだ」です。よってあえて平仮名としています。