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喪失していく社会性

生存のために人は群、場を形成し、太古からの長い歴史を生きぬいてきました。

ネアンデルタール人は家族単位の生活をし、やがて亡び、人類の祖先と言われるホモ・サピエンスは集団としての社会を形成し、氷河時代を耐えたり、外敵から身を守るために生き延びてきました。

 

いまやインターネットが情報をつなぎ、スマホを持っていれば日常品や嗜好品が指先一つで配達される時代となりました。実際に会わなくても、友人ができ、ビジネスが進むようになりました。AI・ロボット化が進めば、人はさらに他者と直接触れ合う事はなくなっていくでしょう。

自己の生存さえ可能であれば、煩わしくも感じる社会性が必要だなくなった時代です。個々人が自分の夢や希望を叶えられる時代にやっとなったのだから、もう集団で生活しなくても、個人の生活を謳歌できるからいいのではないか。それで何が悪いんですかという声が聞こえてきそうです。

 

「ネットがあれば身体は必要ない?」

  

北極熊は生存していくために、餌を求め北極海を一冬に数百キロと泳ぎます。氷と氷の間に潜むアザラシを捕まえるため、鼻が細く、頸がコケた形状になったと言われます。極寒に堪えるため、透明なパイプ状の白い毛は太陽光線を招きいれる作用をし、遠距離を泳ぐ体力を蓄えるためかお尻もでっぷりと非常に大きくなっています。

一方、動物園に閉じこめられた北極熊は、同じ処をなんども往復する常動運動をくり返すようになります。それは悲しい姿であるとともに、人間に見られる存在として生きていくための必要な動作でもあるのでしょう。

  

私たちは、近代文明により安全と便利さを手に入れました。

きちんと税金を払ってさえ入れば、救急車も消防も、警察もすぐきてくれます。

安全や衣食住が保証されでば、部屋に篭り、身体希薄化社会での過度にささくれ立った精神を鎮魂するために、スマホでゲームをあたかも精神の常同運動のように繰り返すことができます。

現代は精神の満足こそが最大の眼目となりました。

合理性に裏打ちされた快適さを蓄積すればするほどこぼれ落ちて行く価値を検証する余地はありません。身体ではなく頭で納得するしかありません。

合理性が極度に追及され、こころの反映は、説明できなければ、存在しないものになりました。合理的な根拠を説明できない事象は怪奇現象もしくは無駄な事なのです。

 

いま、昭和の時代回帰や、クールジャパンがマスコミで持て囃されるのも、無自覚的に身体アラームがなっているからかもしれません。

世界はデジタルではないので、同じものはありません。自然はそういう次元で成り立ってはいないのです。心臓の鼓動は生涯、一度たりとも同一の動きをしないそうです。

 

 

2/6/2018  Ursus maritimus