ここ数年「整う」という言葉が流行り言葉のようになっている。
整体という言葉が多方に使われるようになって、本来の意味が変質し芯のない概念になったように、「整う」という言葉の解釈も多種多様になり、やがて、本来使われていた意味合いも薄れていくだろう。すでに、そうなっているとも思えるが。
ここでは、身体教育研究所で学んだ「整う」を私なりの解釈で書きたいと思う。
「整える」のか「整っている」のか。
「整う」はやはり、自然にそうなっている状態で、人為的にできるものではない。自ずとそうなるような動作や生き方、思想はある。整えを促す技法もあるし、整う場や時もあるだろう。しかし、結局のところ、整うのは身体であり、それは自己の意識でどうなるものではない。いまから整うぞと気張ってみても、自ずとその機というものがある。なぜなら、身体は意識で従属させ得るものではないから。
次に考えたたいのは、整っているのはいつという問題。
整っていないから、整えるのか、
そもそも整っているから、さらにその整えを分裂させ更新していくのか。
人が長い、長い人生を歩み、大人になっていく時、身体的な原点は生まれた時だと思う。
この世に生まれ落ちた時、身体は一番整った状態にあり、速攻で貼られる名前(名前を剥がす参照)を筆頭にいろいろな出来事がその人生において、身体に貼り付いてくる。
貼り付いたレシートをペラペラに風に振るわせておくか、身体に消化させ得るかは、その人の実力次第だ。
ちなみにここでの稽古は、その実力を高めるためにやっている。
そうやって、人は大きくなっていくものだと思う。
何をやってもうまくできなくても、
どんなに体調が悪くても、
どんなに不幸の連続でも、
原点のすでに「整っている」から始める流儀に私は真実を感じる。
「五月雨岩は五月雨を集めて流す」
雨は過ぎ去っていくだけなのだろうか。
岩は変化していないのか。
多くの求道的なものは
「整っていないから整える」だろうけど、
私が学んできたのは
「霞んでしまったような、整っていることを際立たせる」だと思う。
際立たせつことにより整いは消化運動を起こす。
自我として覆うレシートは極力減らしたい。
整うの原点は「誕生」とすれば、頂点は自ずとこの「世を去る時」と思える。
最も脂が乗った、気力や体力が充実した時期は確かにピーク時だろうけど、私の云うところの頂点ではない。
身体は整って生まれ、多くの出来事を経験として消化して整って死す。
そして、その場に立ちすくむ他者としての身体たちは、普段は見過ごしてきた生命を感じあい、世界はその経験の積み重ねにより、人としての文化を形成してきた。
2024/2/18 Sosuke.Imaeda
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